牛戦車

この牛戦車には夢がある!

考(幸坂)

竜巻を何等分すればそよ風になるか考えてみたことはあるだろうか。
もちろんそんなこと無くても構わないんだ。
これは最近踵が乾燥してきたかもしれないなと考えるのと同じくらいの存在感の無さだ。
何か特別なきっかけでも無ければ当然考えることはない。
私ですら昼寝は時々になってしまったこの世の中、考えるきっかけとしてわかりやすいものである細切れの竜巻と出会う機会など無いのは皆わかっていることだ。
しかしたった今、それを考えるきっかけに直面していることを気付いているだろうか。
真夜中のサバンナでだろうと夜全般のソファの背もたれでだろうとも、このきっかけに直面した場所や時間は人それぞれだが、とにかく君は直面したのだ。
そして気付いたとなれば一刻も早く行動すべきだ。それはもちろん後ろを歩く奴が次の一歩を踏み出すより早くだ。
竜巻を何等分すればそよ風になるかはそう簡単にわかるものではない。欠伸の間にわかる奴でもいたらそれは産まれた時に竜巻御輿と名付けられているはずだ。
一人で考えていると必ずどこかで行き詰まる。
だから他の、竜巻を何等分すればそよ風になるかを考えてる人と話し合う必要がある。
学年主任や大工さんじゃあるまいし協力しろとは思わない。ただ話し合うだけでいい。
色んな知識も必要だろう。学ぶべきだ。そうしないとあそこでまた行き詰まる。
これを考えていると他の数々のことも考えていることに気がつくだろう。竜巻を何等分すればそよ風になるか考えるだけで別のことを考えるきっかけが発生している。
こんなに大事である竜巻を何等分すればそよ風になるかを考えるきっかけに直面する機会は平等ではないが、このきっかけのきっかけは、そのきっかけのきっかけは、そのまたきっかけのきっかけ、またまたきっかけのきっかけ、と遡っていくとミミズの歩幅だが平等に近づいているのだ。
だから益々気合いも入っていくだろう。
そうして竜巻を何等分すればそよ風になるか考えていると、この考えの存在感は、隣家のおやじが噴火寸前ではないかと考えることと同じくらいだというところに行き着くだろう。だがそれはまるで違う。
ならばと、隣家のおやじの軍手が左右異なるのを考えるのとは同じくらいだと感じたかもしれないが、それも細かく根気よく掘っていくと違うんだ。
正しいと感じたものも少し見方を変えればてんで違うものになるし、違うと感じたものはいくらどうしたってとことん違う。
限りなく正しいものに近いとしてもそれは違うし、それを基準として隣々と寄せていっても到底正しくはならない。
そんなものには囚われず、大きく踏み込んでみよう。そしたら逆方向から奇襲をかけられるはずだ。
いっそのことオーロラソースについて考えるのと同じくらいというのはどうだろうか。
違うと思うのならそれはまあ仕方がないこと、ならば自分で考えていくしかない。最初からそれしかなかった。
そうやって竜巻を何等分すればそよ風になるかと考えることに存在感の近い考え事を何回も繰り返し考えてこれからは日々を過ごしていくわけだな。
竜巻を何等分すればそよ風になるかということはどこまで突き詰めて考えても、竜巻を何等分すればそよ風になるかという答えにしか辿り着かない。
他のものに辿り着くようならそれは間違いだ。