牛戦車

この牛戦車には夢がある!

涎は大河を経て涙へ(幸坂)

毎度の事ながら顔を拭いたのはバスタオルでだ。順番どおり身体を拭いた。顔は痛かった。固くなった古いタオルは未だに段ボールから出してないのでタオルのせいで顔が痛くなったわけではなさそう。そもそも最初に顔が痛くなったのはシャワーを浴びている時だったのでタオルは無関係に決まっていたのだ。かといって大したことのないこんなシャワーでは相当な仕掛けでも施さない限り、顔を痛くなんてできやしない。

 ヒリヒリと痛かった顔はアイスを食べている今、少しヒリヒリした顔だ。何の因果か顔の痛みを減らしてくれるアイスに感謝している。これからの痛みの減り具合によってはアイスに次いで時間にも感謝することになるかもしれないのだが、それはまた時間が経って実際に体感してみてからのお話だ。なんだかアイスの味が歴代味覚と比較して薄いのは気のせいだろうか。十八口ぶっ通しで薄いからこれは気のせいなどではない、紛れもない。薄いアイスの味についての疑問は製造会社の製造担当の部長辺りに問い合わせてみれば即刻解決するのだろうが、生憎今日は電話したくない。となるとあと考えられるのはアイスに感謝して食べている事だ。味覚の集中力の大半が感謝という心意気に持ってかれているのだろう。これからハヤシライスを食べるっていうのに右に同じく味が薄くなられると困る。母親から受け継いだレシピなのだから、美味しく頂いてないと知ったら母親は切ないのではないか。それも加味して一層困る。

 痛みを減らす為にも感謝は欠かせないのだがその感謝のせいで味が薄くなってしまったらあまり美味しくない。美味しいハヤシライスを作るには工夫が必要だ。二文字で簡単に工夫とは書いても三音で簡単に工夫とは言っても一体その工夫とやらがどんなものなのかそれが定まっていない事が他を蔑ろにする程何より問題だ。ワンポイント工夫と多大なる工夫のどちらがこの味が薄くなることもありそうなハヤシライスを美味しく頂くに値する工夫なのか知りたい。ワンポイント工夫となるとやはりスプーン一杯分といったところだろうか。お茶碗一杯分だと有り余る工夫になってしまうし、かといって小さいスプーンだとそれは二杯分必要だ。一方、多大なる工夫には上限などない。勿論味見をするのが手っ取り早い事くらい脳みその端から端までわかりきっているが、ハヤシライスの味が薄いとなると適切な工夫を選び抜けるか甚だ疑問との状況であって、諸々ひっくるめて板挟みな状況。

 ハヤシライスは鍋にて弱火に晒されていて蓋を閉めて身を潜めているつもりか知らないが、美味しそうなその匂いが目と鼻の先にあるアイスを押し退けている。そのせいで止まってしまった手の先のアイスは溶けてとんだ水浸しのよう。ということはハヤシライスは完成間近であることがわかる。つまりこの段階からハヤシライスへ工夫を加えることは困難極まりあるまじきである。こうなればハヤシライス自体ではなく感謝をどうにかするしかない。痛みを減らしてくれる食べ物はありがたき存在なので正々堂々真っ直ぐではあるが感謝すべきなのか。だが全て杞憂であってアイスの薄い味さえも巻き込んで何事もなく終わるなら否なのか。しかしこのハヤシライスは母親が父親の反対を押しきって教えてくれたレシピだ。感謝せずにはいられない。

 今日一日の行動が何かに辿り着く一歩目であったのかもしれない。それは全ての解決に違いない。手を洗うついでシャワーについて思い返してみよう。

 顔が痛い。痛みを感じた時にはもう手遅れで、痛い顔が痛い。なんでかわからない急な顔の痛みはさすがに驚く。腰は抜かさないにしても両の踵は交互に後退った。シャワーを浴びたことによって今日のこの痛みを知ったわけだが、一体いつから痛みは準備万端だったのだろう。

 シャワーには何かを解決できる術などないようだ。それに加えて痛みの原因などという新たな問題を持ち込む始末。けれどもハヤシライスを美味しく食べるための鍵である感謝を動かすことのできない今、痛みの原因を知りなんやかんやで痛みを解消することができれば美味しいハヤシライスが待ち構えてくれるかもしれない。痛みの原因として考えられるのはシャワーを浴びるまでの今日一日の行動なんだと思う。

 朝起きて笑顔の数を重ねる。鏡に向かってやるのだが目が悪いので、鼻が長かったのなら鏡にくっつく程近づく。息が上がり鏡が曇ってきたら何も見えないのでやる意味もなくなり終えた。顔の筋肉が肉離れなどになり、その痛みに皮膚も合わせた結果ヒリヒリしているのかもしれない。昔、鏡が見当たらない際は夜の窓に向かって笑顔を放っていた。笑顔をして鏡が曇るというのは、笑顔が曇るみたいで縁起が悪いのでもうやめにしよう。

 この後寝る間を惜しんで考えたり何をしようが、この笑顔が痛みの原因なのだろう。しかしシャワーを浴びるまではまだ行動していたわけだから消化試合だとしても思い返すべきだ。ハヤシライスはあと胡椒少々を入れると完成してしまうのでさっさと終わらせよう。

 髪を切るために床屋に入った。その時はちょうど髪を切りたい気分だった。床屋には理容師や自分を含めて人は疎ら。待ち合いの椅子に座る瞬間に呼ばれ、座ったそのバウンドでそのまま立ち上がり髪切り席へ向かう。髪を切られ始めると耳元でチャキチャキと音がする。この音が発せられる距離でどこを切ってるかわかるという寸法だ。髪をさっぱりと切られ終わり頭を丸ごと洗われる。お得意の「お痒いですかあ?」となかなか聞かれない。痰でも絡んでいるのだろうか。お手軽に吐ける洗面台があるのだが何を我慢しているのか。シャンプーを泡立てて水で流す、四回も続けているのだからもうそろそろ終わるだろうにまだ「お痒いですかあ?」と聞かれないのはおかしい。さすがに痰の我慢も限界だろう。ということは端から痰などではなく普通に聞かれていたのに、眠さのあまり集中できていなくて聞き逃してしまっているのかもしれない。今更気が付いても後の祭りで、いくら耳をすませようが聞こえるのはゴシゴシと頭を拭く雑音のみ。神輿の無い祭りをやる神主の気持ちがよくわかった。

 ちょうど旋毛周りを洗われている自分の姿を想像できる今だからわかることだが、集中できていないということは危機察知が働いてないだろうし、寝てしまったら溺れていただろう。跳ね返りが怖いので痰は吐かれなくてよかった。なんとも危ない経験だった。

 顔剃りが始まる。

 顔剃りが終わる。

 顔剃り後にタオルの下に顔がくるように蒸しタオルを置かれる。蒸してあるタオルは心地よくまたもや眠くなってくる。タオルで顔を拭かれると顔中に痛みがばら撒かれる。何事かと慌てたがあまりの痛さに身動き一つ取れない。動きやすい痛みになった隙に左胸に乗せていたスマホを握るが目を瞑っているので操作など夢のまた夢。痛みが生じていると冷静さなんてどこ吹く風。素朴な方法だが顔を拭くことを一旦止めてもらえば何ら難しくなくスマホを操作できるのに。痛みを伴う顔拭きは続き、無痛は顎の先にまで追いやられている。しかし痛いことを正しく相手に伝えるのは難しいので痛みは続くばかり。「もう少しやさしくお願いします。」や嫌味混じりに「もう少しやさしくお願いします。」など言いたいがそう簡単じゃない。目の下を執拗に擦ってくるのは泣かれてないとするためか。痛みで声が漏れないように食いしばる。理容師に斬り伏せるが如く一言言ってやればいいのだが呼吸を止めて耐えているので出す息がない。痛みを感じると反射的に動く身体もあって、無意識に足をバタつかせてしまっていた。床屋でそんな足した人なんていないので恥ずかしい限りだ。そのせいで身体が揺れて擦れ具合を益々激しくした。ようやく人の顔面を拭き終わったようだが痛みは残っていて、まだ拭かれていると錯覚してしまう。鏡を見ると見たまんま今は拭かれていないことがわかる。顔は真っ赤でいかにバタ足が恥ずかしかったかわかる。整髪料はつけなかった。

 指摘するのに勇気がいるにしても大きい声での「まっ!」「なっ!」の一つや二つ、お金を払っていることを考えれば何も恥ずかしくないはずだ。タオルで顔を擦っているのだからそのタオルを噛んでしまえば容易には擦ることはできないだろうし、運が良ければ歯磨きにもなった。あらかじめスマホにアラームを仕掛けていれば理容師はその音に驚きビクッとしたせいで今日一番の強く擦り上げりを見せるもののそれを最後に止まってくれるか、アラームを解除するために少しばかりの時間稼ぎができたものを。床屋で整髪料はつけたことないのだが痛さとプラマイゼロにするためにも挑戦するべきだった。こめかみもなかなか痛かった。考えてみればいつも数々の他所のお祖父さんを相手に顔を拭いているため握力の調整を強く合わせているのだから理容師軍団に悪気はない。

 次髪を切る時はボクサーさながらワセリンを塗るというのも一興か。混雑時を狙って理容師の握力に疲労が見えるまで最後尾を維持し続けるか。どちらにせよ床屋の帰りが痛みの原因だと今になっては疑いの余地が出てきた。

 帰り道を信号に則って止まったり歩いてると雨が降ってきた。家に着くまで雨に打たれていた。普段雨ではそんなことないのだがもし雹であったなら、一粒一粒が眉毛に当たることによって回転がかかり顔を傷付けていたのかもしれない。

 帰宅後ご飯を食べたが何を食べたのか覚えていない。まるで印象がない。印象のない食べ物なんて食べるわけがない。舐められてたまるものか。しかし何も食べてないということはない。お腹具合で考えようにも今が強空腹なので確かめようはないが、何か食べているはずだ。では印象のない食べ物はなんだろうか、無色の食べ物、無臭の食べ物、そんなものはわざわざ食べるわけがない。後ろ指など差されてやるものか。覚えていないのは味が薄かったからなのだ。しかしこの時は食事に感謝などしていない。となると感謝すると味が薄くなるというわけではない。昨日食べた海苔の味が薄くなかったことを核として考えるに、痛みが味を薄め、美味さが痛みを弱めているのだろう。今後とも痛みと美味しさは口や顔など顔付近でデッドヒートを繰り広げていくのか。

 薄く感じてしまう味覚に合わせるために胡椒をたくさん入れると濃さはちょうどいい。子供でもできたらこの母直伝レシピを教えてあげよう。