牛戦車

この牛戦車には夢がある!

マスレクスブレイン(山本不様編)


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昨日治したかばんの持ち手。
ひと針ごとに少しずつほつれた糸が縫い合わされていった。気持ちが良い。

治している間ずっと、一つ一つの縫い目とその連なりを通して、獣や子どもみたいな、荒々しい生命力に触れていた。

何かが必死に手足をばたつかせ、生きようともがいているような、そんな生命の躍動。それは俺のものでありかばんのものだと感じた。

俺が痛々しさを覚えるのはこういう瞬間だ。
このカバンの傷跡には俺個人のものではない、もっと根底で響きあうような共感性がある。生々しさという意味でのリアリティがある。だからその痛みがわかる。


服を縫うのが好きだ。布に糸を通す、縫い合わせる。縫い付ける。
ここで行われていることは、機械的なニュアンスの「修理」ではなく、もっと肉肉しく温かい、「手術」だ。人の手による術。
手指の動作、その小さな躍動が布に命を吹き込む。純粋な楽しさがある。
料理をしたり、絵を描くのも同じように好きだ。人の指先で生まれる些細な奇跡。

 

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「us」


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「I love my burning house」


今日の昼描いた2枚の絵だ。巨大な化け物、女性、どちらも俺だ。楽しく描いた。
少し前、画商の方に絵を見ていただく機会があった。「マッハ」を描いた頃だ。
「一生懸命楽しく描いているのは伝わるがテーマが見えない」と言われた。
小さな感動があった。壮大な物語のほんの数ページ目にいるんだな、俺は。この先にあるものを彼にも、俺にも見てほしいと思った。

俺がその絵の中で躍動しているのが、俺以外の誰かにも確かに伝わっている、それが嬉しかった。
多分この先、作り出すものそのものにテーマを宿すのではなく、自分自身がテーマになる、あるいは自分の持つテーマが自然に反映されるのだろう。

 

"Everything I do is my first name" (Big Sean/ I don't fuck with you)
最近俺が反応した歌詞。
彼が意味したのは、「おれのやること全てが"Big"だ(彼の名前とかけて)」だ。

俺がはじめに感じたことは違った。
人のやる行為全てにその人の名前がつくのだ。いい歌詞だと思った。俺の体についている名前は、ただ俺とその他を区別するためのものではない。
俺が体験したドラマの連なりについている名前でもある。そして、そこから生まれる俺固有の動作についている名前でもある。

より広い視点からこのことについて考える。
複雑に絡み合ったコンテクスト(文脈)が動作に宿る。そして、動作は影響をもたらす。そこに誰かが触れることで新たなドラマが生まれる。ドラマは、新たなコンテクストとして受け継がれる。それぞれを個別のドラマとして区分することもできるし、その一連をひとつのドラマだと捉えることもできる。


誰かの放つ固有の輝きにより世界は、俺は、永久に姿を変える。どう変えるか、どう変わるかは誰にもわからない。しかしその全てが感動を伴う。
俺は輝きを内に秘めていたくはないし、最大限の輝きを放ちたい。輝く人々の間で俺も輝きたいと思う。
今たくさんの人の顔が浮かぶ。彼らが固有の輝きを放つことをやめてほしくはないと感じる。

 

彼女と仲がいい時の俺は、走り回ったり飛び上がったりしている。絵は大抵こういう時に生まれる。今日はまさにそういう日だ。これから図書館に行って本を読み漁ったりする。

彼女と仲が悪い時の俺は縮こまって音楽を聞きながらひたすら縫い物をしている。

彼女と仲がいい時に縫い物はできない。体が踊り出すのを止められなくなる。楽しすぎると、音楽が邪魔だって感じてしまうこともある。

彼女と仲が悪い時は絵なんてひとつも思いつかない。でも手は動かしたくて、音楽にどっぷり浸かりながら破れた服を縫ったり、気に入らない服を染めたりする。

不思議だ、なんでだろう。このこと誰かと話したいな。