牛戦車

この牛戦車には夢がある!

大学5年間を振り返る-2018年(ヤッチボーイ)

俺は記憶力が良い。そのおかげで学校ではずっと成績が良かった。
大学入試は記憶力が良ければ高い点数を取ることができる。少なくとも5年前の大学入試はそうだった。
それで京都大学に入学した。行けるところの中で一番良い大学に行こうとしか思っていなかった。
中学の時にロックミュージックが好きになった。高校では曲を作り始めてバンドを組んでライブをした。将来は音楽で飯を食っていくはずだった。どうしてもそれが叶わない時のために良い大学に行っておく必要があった。食い扶持があるだろうから。
大学で研究したいことも特になかった。バンドを組んで在学中に売れるものだと思っていた。それで就職もしなくて済む。
ただそんなことは親には言っていなかった。こんな企みを打ち明けたところで絶対に却下される。だから地元を離れ早く結果を出したいという気持ちが強かった。
 
 
入学式の1週間前ぐらいに京都に渡った。
下宿は熊野寮という学生寮だった。入試の日に母親も同行し、下宿の下見に回っていたのだが、その時に寮を訪れ、強くお勧めしてきたのだった。雰囲気がいいだの最初から一人暮らしは大変だのどうのこうの言っていたが、おそらく4100円という破格の家賃を見てのことだろうと思っていた。
熊野寮吉田寮と並ぶ中核派の拠点であり、寮の中はどこを見回してもめちゃくちゃである。壁という壁に落書きやいつの時代かわからないポスターやビラが貼られている。
1部屋に4人が入った。2段ベッドが両サイドに2つ置かれており、その中間に棚や電子レンジやトースターが置かれていた。汚くないものがなかった。全てのものが埃をかぶっていた。床でさえも、ルームメイトの動線以外の部分は薄く埃をかぶっていた。気まぐれで降った新雪のように白く覆われていた。
ルームメイトは皆院生で、かなり年上だった。
対岸のベッドの1階部分で寝ているA先輩は今まで見た男性の中でも群を抜いてイケメンだった。ただ本人はとにかく筋肉を増強することにしか興味がなく、何年も彼女がいないと話していた。陸上部に所属しており、初めて会った日俺を見るなり「君、足早いでしょ?なんか体の作りとか動き方からそう感じる。」と言ってきた。俺は昔からかなり足が遅い。
その上のベッドで寝ていたI先輩は穏やかな喋り方で、ゆったりとしたオーラを纏っていた。誰からも好かれるような人だ。
俺は部屋に入って右側のベッドの1階部分に寝ていた。2階部分には韓国人(正しくはわからない)のC先輩が使っていた。彼はあまり寮にはいなかったが、洗濯カゴには服が器用に高く積み上げられており、夏場は若干の悪臭を放っていた。彼とはほとんど話すことがなかった。
B3ブロック(B棟の3階)には俺を含め男子4人、女子2人の新入生が入寮した。入寮してから2・3週間はさまざまなコンパが寮中で開催され、B3の1回生男子4人は割とスムーズに打ち解けていった。
 
 
サークルは、いくつかの軽音サークルのうち一番オリジナル曲をやるバンドが多いと言われているサークルに入った。1回目の会合でバンドを結成させられた。俺は自作の曲をやりたかった。聞いていた話と異なり、皆コピーをやりたがっていた。ギターボーカル、ベース、ドラムをなんとか集めたが、バンドの滑り出しとしてはかなりぎこちなく、意志も噛み合っていなかった。俺が1回目の練習に1時間以上遅刻してしまったこともあり、さらにバンドは弱体化した。演奏はグダグダで、新入生ライブを一回やったのみでサークルを脱退した。
なので、5月からは特にすることがなかった。寮の各ブロックには談話室があり、そこには歴代の寮生が持ち込み残していったありとあらゆるゲームと漫画があった。B3ブロックの1回生男子4人のうち3人はサークルや部活に所属していなかったため、テレビゲームやボードゲームをして毎日の時間を減らしていった。皆スマブラが強かった。地元のレベルは高くはなかったのだと気づいた。
 
 
特に何をするでもなく夏休みがやってきて、俺は地元に1ヶ月半ほど帰省した。前代未聞の長さだった。そわたと帯広に免許合宿にいった。大きな地震があった。
 
 
その夏、俺は父親の故郷に行った。遠い昔に一度行ったことがあるらしいが、その時の記憶は全くなかった。数ヶ月間ではあったが札幌を離れ京都で暮らし、自分のアイデンティティをある程度固めて持っておくことを望んでいた。
白滝村という北海道の東の方にある山間の小さな村に、父親の運転で向かった。あっけないほど小さい村だった。高速道路から村の全容が見渡せた。かつては石炭採掘が行われていたが、石油に取って代わられてからはただ終わりを待っているかのような気配だった。黒曜石の産地であり、考古学や歴史学的には重要な土地であるらしく、村のサイズとは不釣り合いに大きな博物館があった。人は全くいなかった。
親戚の家を訪れたが、ほとんど面識がなく喋ることもないため、その家の倉庫にあった釣り竿を拝借し、近くの川に行った。父親は故郷について話す時、川には魚がいっぱいいて手づかみで捕まえてたんだぞとよく言っていたが、橋から見えた川はうら寂しく、土袋などが捨てられていて、俺が思い描いていたような「躍動する命」というイメージからはかけ離れていた。まともな餌もなかったため、何も釣れなかった。1時間ちょっとで切り上げ、札幌に帰った。父親の故郷はそれだけだった。
 
 
夏休みが終わりに近づき、まだ蒸し風呂のような暑さの京都に戻った。
音楽の道はまだ目の前に確認できた。オーディオインターフェースを購入し、思いついた曲をgaragebandで形にしていった。
 
 
それとは別に、高校の時からの冒険志向がまたむくむくと立ち上がってきた。自然や冒険へのロマンは、遊水路のように音楽という大きな流れの横をつねにサラサラと流れていた。
高校の時も登山部に入っていた。大学の山岳部は高校の時とは比べ物にならないくらい大変で、危険を伴う活動であるという事実にはほとんど目を向けず、冒険するなら山岳部だろうと考え、後期から入部することにした。火が一番高く燃えているうちに勢いのまま連絡した。
9月末ごろ、入部の手続きのために初めて部室に行った。ここもまた汚く、臭かった。何十年も使われているような大きな木のテーブルとオフィスデスクが連結され、それらが部屋の面積の大半を占めていた。机上にはさまざまな書類や本や山道具や食べ物が散らかっていた。床にはザックやシュラフや靴や靴下やガス缶や鍋や食べ物やペットボトルやその他あらゆるゴミが転がっていた。本棚には約80年分の活動記録が保管されていた。その上には遺影が10枚以上額縁に飾られていた。一番右端の2枚はかなり新しい写真だった。
出迎えたK部長は身長が高く、三浦春馬に似た整った顔立ちをしていたが、栄養状態の悪さが一目でわかるほど不健康的に痩せ、俺の言えたことではないが清潔感にも気を配っていないようだった。入部の書類を書いている最中、彼はジップロックに入ったパン粉を「アォー」と言いながら口に直接流し込んでいた。俺はそういうものだと思うしかなかった。パン粉は質量に対してカロリーが高く、その先輩が行動食として山に持っていっていることは後でわかった。その残りを食べていたのだった。
山岳部の現役メンバーは3回生が3人(K部長と女子部員2人)、2回生が男子部員2人(程なくして片方は退部した)、1回生が俺を含め男子3人であった。4回生はOBとして扱われたが、活動には熱心に関わってくれた。
 
入部してから11月の遠征までの期間は、前期に入部していた他の1回生たちの技術の差を埋めるべく、先輩の指導のもと急ピッチでロープワークの練習をした。11月には富山県立山へ冬山合宿に行った。

アイゼン合宿(立山)。先輩が撮った写真。初めての冬山だった。
年末年始には、新潟県妙高にスキー合宿に行った。

 

1月1日は山頂付近に雪洞を掘って泊まった。写真は雪洞内部の様子。寝てる間に雪の重みで天井が下がり、起きた時にはまあまあ顔の近くにあった。ヒヤッとした。

ションベンをしに雪洞から出ると夜明け前の光が山の向こうに滲んでいた。この景色を見ながらションベンを撒き散らした。俺は2019年度いっぱいで山岳部を退部したが、約1年半の短い間に一生忘れられない景色を何回も見ることができた。その中でもこの夜明け前の景色は特に印象に残っている。大袈裟じゃなく、生きていてよかったと思った。
翌2019年は山に打ち込んだ1年だった。いろんなところに行った。また書きます。