牛戦車

この牛戦車には夢がある!

お見舞い(幸坂)

夏風邪か季節の変わり目風邪か定かではないと噂になっていた町田から体調の不調を教えてもらったのは一昨日のことだ。電話の町田は大層別人で、鼻が詰まった声も喉が腫れた声も誰のどの声か分かったもんじゃない。電話のやりとりを思い返すに町田はどうやら具合が悪く、四回から六回程寝返りをうつと額の冷却シートを貼り替えるという自己看病を家にてコツコツと繰り返し行っているようだ。昨朝、私は町田について考え始めた。考え終わった結果、お見舞いに行くことを決めたのは昨朝を過ぎる頃だった。綱引きをしても、うたた寝をしても、ちらし寿司を食べても快適であろう服装で私は見舞い立とう。

 右目と左目それぞれに映りやすい自動販売機の数を競わせ歩いていると町田の家はすぐここだ。ペットボトルが積み重なって偶然にもできてしまったであろう等身大のそれに立て掛けてある町田の自転車は所々錆びていて、時の流れの速さの追体験を誘ってくる。撫でるように軽く踏まれてあったタンポポが指したその先には都合ついでに日当たりもよく町田の部屋があった。町田の部屋番号については定期的に耳にしてしまうので私が忘れることはない。些か緊張感の滴ったドアノブを撚ると鍵がかかっていた為かドアは開かなかった。これは意外にも幸運だった。開かないドアをガンガンと音立て引く度に私の頭の中で、手土産というものが鮮明を目指し双六してくるのだ。一着の賞品なのだろうか、握っているドアノブ以外は何も所持していないことを悟ることができ、瞬時に私は手を離した。町田としても手のひら丸見えの私と鉢会わせることを避けられて良い思いをしただろう。手だけを見れば裸一貫の私には町田の家など用はない。ここ、もしくはここいらで時間を潰すという選択を迫られようとも、私は力の限り精一杯抗うとの意だけは腹に忍ばせて来ているので、申し訳ないが帰宅する。一歩二歩、手も使うのならば倍の数だ。

 帰り道とは行き道と風景も暗さも異なるものなので、細かく振り返って行き道と以前は同じ道だったのかを確かめて歩かなければならない。地蔵像の後ろ姿など滅多に見かけないものも見れる。帰り道とは天気も異なるので雨が降ってくる。生憎、傘は持っていないので極力濡れないように小走りに切り替える。天気予報を綴ったハガキを至る所の電子機器に貼りそれを寸分も許さず見なかったとしても、町田への手土産として傘を持ってくる機会はこの道中思い返せば幾らでも落ちていただろうに。今すれ違っているこの裁判所は家まではまだ遠く、道すがら雨具を買えばいいのだがどうせ家へ帰るのだから雨具より上質な手土産を家で見繕う方が町田向きだ。勢い余って家を通り過ぎ海浜公園に着いたが人が少なくて寂しい場所だった。

 家には隣家の蚊取り線香の匂いが充満していて、我が家の蚊取り線香の香りは押し負けた。手土産には安眠道具の小さなプラネタリウムデラウェアを持っていくことに決めたが、少々物足りなく感じる。この水に塗れた腕ではシフォンケーキのような水を吸ってしまう物は荷物になるので持っていくことは叶わない。家にある他の物には渡されて福が来そうな物はないので町田の家に着くまでに何か相応しい手土産を掴み取ろう。雨のせいで水に濡れて凍えた手の震えで天井のプラネテリウムは激しく揺れ、茎から取れたデラウェアの粒が床を跳ね、屈折した赤紫の光や丸い影を踊らせる。今、体を温めたり乾かしてもまた外に出てどうせ濡れるのだからこのまま辺り一面美しく歩いていくだけだ。

 日付が変わって昨日二回目の町田のお見舞いが途中で終わり、今日初めての町田のお見舞いが途中から始まった。バケツで水を年中掛けられているように濡れているため濡れることはない。しかし風が吹いてくると話が違う。風で私の水は吹き飛び、町田の家に着くまで絶え間無く新しく濡れた。

 町田の家のドアは濡れていた。濡れたドアノブを握ると手が濡れた。ドアをガンガンと音立て引く度に濡れたドアから水が跳ねて顎が濡れた。そうしてると徐々にドアノブを捻っていたようでドアが開いた。こんな夜中なのに町田はいつからか鍵を開けてそのままにしていたようだ。

 町田の寝息は雨音が弱まった期間にしか聞こえないが、部屋に居ることを確認できたため一つ肩の荷が降りた気分だ。真っ暗な部屋の中では町田の居場所がわからないので部屋中の明かりをつけると、町田はやや手前で寝ていた。プラネタリウムは部屋が明るいせいで何も見えないが次の夜には見えるだろうからつけておこう。すぐさま町田の風呂を借りるが町田は数日寝込んでいるためお湯が溜まっていない。お湯が表面張力を発するまでの時間を濡れた人が部屋にずっといると町田が濡れて風邪が長引くので、外で時間を潰すしかないがどうせこの後も風呂で濡れるので早いか遅いかだ。

 風呂は自分の身体の大きさと同じ程お湯が溢れた。手土産でシャンプーを持ってくればいつもと同じシャンプーを使うこともできたんだ。お見舞いに来て風邪を引いたんじゃ世話がない。風邪を引いた私を見たら町田はきっと自分のせいだと思ってしまう。風邪の嫌なところはお見舞いに来た人に移してしまうことだ。町田が気を病んで風邪が治らなかったら嫌なもんだ。