牛戦車

この牛戦車には夢がある!

unknown・A(幸坂)

炊飯器とはそうそう失くなるものではないのだが、この原内という男はその炊飯器を二つも同時に失くしたと言うのだから私は不本意ながらも尻もちをついてしまった。エレベーターで話したからか鼻から息が漏れた原内の声は聞こえにくかった。乗り合わせていた気前の良いだろう初老の男は持ち前の気前の良さとは裏腹に、尻もちをついた私のことを直接見ることはせず、鏡に映る左右反対の私の様を見ていた。その初老の男の遠巻き面はなんとも真似できないむず痒さで、いっそのこと私が掻くことを躊躇わない程にしてくれた方が楽だったかもしない。

 週明け、原内とすれ違ったので炊飯器について聞いてみたところ「飯でも食べながら話すよ。」と呼び止められてしまった。私はまだ小腹も空いていなかったので今夜少しばかり早めな夕食を共にする約束を取り付けた。素早く返された原内の踵は心做しかTHANKSyouの文字と五芒星を描き、秘密裏にありがとうのその気持ちを伝えているように見えた。夕食時までたった一人で時間を潰すのは屁も詰まるほど簡単と勝手に決めつけ「容易い。」とメモまでしていた思い上がり小法師と呼ばれそうな私を、情けなど蹴散らす勢いで社会は裏切ってきた。映画を見るにしても私には中途半端な時間しか残されておらず、二本目の上映の半ば途中で原内が一人寂しく語り飯を始めてしまう事となる。喫茶店でコーヒーを順風満帆に味わおうにも、コーヒーが冷めてしまうか氷が溶けてコップから溢れてしまうかの二択に追い込められ、気まずいお会計の末お金とお釣りの交換さえ慌てふためく事になる。野球をプレイするにも道具を家に取りに行くには直線距離が遠すぎて行って戻って来たらろくにホームベースに帰れないだろうし、近場に住んでる野球監督はこの時間ではうつらうつらしているだろうから迷惑はかけられない。時間を潰す術は何一つ芽が出ない。埒が明かないので私は薄目になってみた。久しぶりに目を薄めたからか以前よりも視界が悪く、足元がいまいち見えない。このまま交差点をひたすらに往復することを想像してみると、つむじからチロチロと恐怖によく似た感情が垂れてくる。その事実に気がついた私は怖くなってしまい、薄目のせいで視認はできないが足が竦んだことを確認できた。この怖さをどうにかしなければ私は夕食の約束を守れないのだろう。恐れに打ち勝つために私は覚えた漢字を片っ端から手のひらに書いて飲み込んでいく、書き順がわからない漢字も無理矢理口に押し込む。そこらのカラスが鳴いたのに続いて、人差し指は六周目を完走した漢字からアルファベットへと面舵いっぱい。Tを三つも四つも口に入れているところで気がついたのだが薄目とはなんとも傍若無人で、手元すらいまいち見えなくされてしまっていた。手元の視界も悪いようじゃハイハイで道すがらの横断歩道も渡れやしない。ここまで大事になってしまうと流石に私一人では手に負えないのではないか。少し目を離しただけでこの有様だ。こんな私が朝顔なんて育てた日には気づけば西瓜を不貞腐せる程の種を拵えてるなんてことも寸分あり得る。こうなってしまっては私にできることは何もないので拳を力いっぱい握りしめ、途中まで書いていたPを無かったことにする。意味がないとわかってはいるもののストレッチがてらに首で十字を切る。最中、視界には眩い粒が右目尻から飛び流れ、吹き舞い上がる。咲き誇り千色万彩の花が揺れ踊る。星は駆けて花と交差し烈しく移ろい、儚く逃げる。早くも神は救ってくれるのか、お急ぎ便とはこの事で横入りで申し訳ないが神と親しみ深いお悩み事だったのだろう。私は目を大きく開けた。点滅している信号の光が私を青く照らしていた。夏至に比べて冬至の方が幾らか近いとはいえ、こんなに照らされているとなると時間に余裕はないのは明らかだ。